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留学体験記

― 辛く険しい道 ―

サニーブルック病院の正面
サニーブルック病院の正面

「ナイアガラの滝にはもう行ったか?」
「はい。行きました。」

「日本人は本当にナイアガラが好きだなぁ。あんなのただ水が物理の法則に従って落ちているだけじゃないか。どうしてあんなのが見たいのだ?」
「私が卒業した大学のある、新潟という町には、『佐渡に行かぬ馬鹿、二度いく馬鹿』という名言があります。つまり観光名所へは、一度は訪れよ、という古人の教えです。」

「じゃあ、お前はナイアガラに何回行った?」
「3回行きました。」
「佐渡は?」
「一度も行ったことがありません。」

「日本人の言うことは信用できん。」

 私が留学していたトロントのサニーブルック病院で手術室での私と、私のボス、クリスタキス先生との会話です。しかし非常に気難しいことで有名なクリスタキス先生と、このような会話ができるようになるまでには、実に辛くて厳しい道を進まなければならなかったのです。

― 生涯の師となるクリスタキス先生との出会い ―

手術を行うクリスタキス先生と私
手術を行うクリスタキス先生と私

 事の発端は1995年までさかのぼります。この年、私はボストンで開催されたAATS(American Association for Thoracic Surgeryアメリカ胸部外科学会)という学会に初めて参加しました。参加といっても、もちろん一人の聴衆として発表を聞いていただけです。
 このAATSという学会は全世界の心臓外科医の目標とする学会のひとつです。アメリカ国内はもとより、全世界から演題の募集がありますが、年に一度のこの学会ではたったの60題程度しか演題は採択されない非常に狭き門で、この学会で発表するということは、全世界の心臓外科医の憧れでもあるのです。参考までに申し上げますと日本胸部外科学会の年次総会では700題以上の演題が採択されています。若き外科医であった当時の私にとっては、憧れというよりはむしろ、オリンピックを見に行くような他人事のような感覚がありました。

 この学会に参加したのにはもう一つの目的がありました。大動脈弁の外科手術では世界的に高名なゴールドマン先生の手術を見学に、ボストンから比較的近いカナダのトロントを訪れるというものでした。そしてこのとき私は、サニーブルック病院をはじめて訪れたのでした。

 サニーブルック病院でゴールドマン先生の手術に立ち合わせていただいたのですが、先生はご自分では手術はされず、イスラエルから留学している若いフェロー(アメリカ、カナダでは基礎的トレーニングが終了した医師をフェローと呼びます)に指導をされていました。穏やかに、しかしピンと張り詰めた緊張感の中で実に的確な指示を出され、若いフェローはまるでベテラン船長に導かれた操舵士のように、実に精確な手術をしていました。私はこのフェローに聞いてみました。

「このようにゴールドマン先生に指導していただいて手術をするチャンスはいったいどのくらいあるのですか?」
「毎日だよ。」

私は次の瞬間にはゴールドマン先生に対し「私をこの病院のフェローにしてください!」と頼んでいました。ゴールドマン先生の答えは実にあっさりしたものでした。

「いいですよ。帰りに私のオフィスに寄りなさい。君がクリアしなければならない条件を渡すから。それから、若くて非常に優秀な外科医を紹介するよ。今後の連絡は彼を通して行いなさい。」

そして私は生涯の師となるクリスタキス先生を紹介されたのでした。

― トロントへの道のり ―

手術を行うゴールドマン先生と私
手術を行うゴールドマン先生と私

カナダ、オンタリオ州で日本人である私が医療行為を行うためには次の条件が必要でした。

①自国でその分野の専門医として認められていること。
②英語が堪能であること(TOEFL 580点、TSE50点)。

①は日本では7年目になると胸部外科学会の認定医の受験資格が得られることになっていたため、困難はありませんでした。
 しかし問題は②で、これは英語で動物保護団体と交渉し、商業捕鯨再開を約束させろ、といわれるのと同じくらい困難なことと思われました。

この日から私の英語との格闘が始まりました。私の生活に完全に2つの中心ができてしまいました。昼は病院、夜は英語学校。

 TOEFLというテストはそれから3年で何とかクリアすることができました。
 しかしスピーキングの試験のTSEはどうしてもクリアできませんでした。
 そこで私は作戦を変更し、カナダに渡ってしまい、カナダで生活しながら英語を勉強することにしました。
 そこで私はクリスタキス先生に連絡し、何とか研究職で私を雇ってくれるように頼んでみました。非常にラッキーなことに、ちょうどこの頃クリスタキス先生は大規模な臨床研究を行っており、研究助手を探していました。そのため、私はすんなりと雇っていただくことができ、1999年9月にトロントに渡りました。

― トロントでの4か月 ―

 トロントでの第一日目、クリスタキス先生は私に言いました。

「お前に1ヶ月やる。この1ヶ月の間に過去10年間に書かれた大動脈弁置換に関する論文をすべて読みなさい。そして1ヵ月後に私にレポートを提出しなさい。それでお前を判断する。以上。わかったか。」
「Yes, I understand. (はい、理解しました。)」

「よし、これから私の言うことが理解できた場合は今のようにYes, I understand.と答えなさい。お前がそう答えたときは、私の話した内容をお前がすべて理解したと考えるから。英語が理解できない人間と私は仕事をする訳にはいかない。」
「Yes, I understand.」
「よし。行ってよろしい。」

 その足で私は病院の図書室へ行き、それからの1ヶ月間私は図書室の住人になりました。
 1ヵ月後、私のレポートをクリスタキス先生は大変気に入ってくださり、先生の研究を手伝わせていただけることになりました。更に3ヵ月後には私に研究テーマを与えてくださいました。その内容は幸運にも2001年、胸部外科学会(The Society of Thoracic Surgeons)に採択されニューオリンズで発表を行いました。

― AATSでの論文発表 ―

左からクリスタキス先生、ゴールドマン先生、私、パルティエ先生
左からクリスタキス先生、ゴールドマン先生、私、パルティエ先生

 ある日、クリスタキス先生は「AATSに演題を出してみろ。」と、おっしゃいました。ちょうど4年前、私がボストンで初めて参加した、あの憧れのAATSです。私にとって、AATSは単なる憧れの対象でしかなかったので、ダメもとで演題を応募してみました。
 ところが驚いたことに、AATSに私の論文が採択され発表できることになりました。私はあまりにうれしくて、AATSで発表するためにスーツを新調することにしました。
 自分には分不相応なのは充分承知していたのですが、その時、私の気持ちは既に雲の上にあったため、何のためらいもなくアルマーニのスーツを買いにいきました。トロントで最も高級なデパートに行き、アルマーニ売り場に行ったのですが、はじめは私のような貧相な日本人を店員が相手にしてくれません。
 そこにたまたまゴールドマン先生が奥様と買い物にいらっしゃいました。

「ヘイ、ナオジ。私も滅多に入れないこんな店で、何をしているのだ?」
「AATSで発表するためにスーツを買おうと思いまして。」
「それはいい!お前はサニーブルックを代表して発表するんだからな。アルマーニが必要だ。よし店長を呼んであげよう。」

 この一言で店員の態度が一変しました。

 AATSの当日はあまりに緊張していたため、自分がどのような発表をしたのかよく覚えていません。しかし発表の後にまったく知らない何人ものさまざまな国の先生に「おめでとう。」と声をかけられました。その時私はこの学会の権威を改めて実感しました。

― 英語では苦労の毎日 ―

 さて、研究の準備をしている間に英語は何とか上達し、英語の試験にも合格し、更にカナダのライセンスを取る手続きに約半年を要し、2001年1月についにサニーブルック病院の臨床医として診療に参加することができるようになりました。
 英語の試験に合格したとはいえ私にとって英語は外国語です。とにかく、英語では苦労の毎日が続きました。
 ある日、手術が終わったばかりの患者さんが私に聞きます。

「Will I live?(私は生きられるかしら?)」
「I think you can leave the hospital by next Monday. (来週の月曜日には退院できると思いますよ。)」

 LiveとLeaveという単語を聞き間違えた事による、まったくかみ合わない会話です。この患者さんはずいぶん不安になったに違いありません。聞きようによっては、私の答えは、来週の月曜日には病院を追い出されるとも取れますから。

病棟の看護婦さんたちと
病棟の看護婦さんたちと

― 病院はまさに戦場 ―

 サニーブルック病院には心臓専用の手術室が3つあります。それぞれの手術室では毎日2例ずつの開心術が行われます。それに対してこの病院のスタッフの術者が3人~5人。そして私のようなフェローが2人~4人。これだけの人数で週に30例の手術を行うわけですから私にとって病院はまさに戦場でした。

 毎朝5時に起き、6時半からICUの回診を始めます。それから病棟の回診を行い、データのチェック、カルテの記入、その日の指示だしを済ませます。7時45分には患者さんが手術室に搬入されます。冬はこの頃病棟の窓から日の出を拝むことになります。1例目の患者さんが手術室を出てから2例目の患者さんが搬入されるまで1時間しかありません。この間に1例目の患者さんをICUに搬入し、1例目の手術記録をテープに録音し、食事を胃に流し込み、急いでまた2例目の手術に入ります。2例目の手術が終わるのは早くて4時、遅くて9時頃です。それから2例目の手術記録を録音。病棟に上がり、患者の経過を確認。次の日に手術を行う患者に手術の説明を行い、同意書にサインをもらい、ようやく帰宅できます。

 しかしフェローで病棟当番を行うためフェローが二人しかいないときは1日毎に病棟当番が回ってきます。病棟当番の日はほぼ一晩中ポケベルがなりっぱなしで病棟の指示、他科よりの依頼、救急室からの依頼を受けます。土日は休みですが、当番の週は土日連続で病棟の仕事を全て行います。
 自分が東京女子医大で研修医を行ったときよりもはるかにきつい生活でした。毎日、日本に逃げ帰りたいと思っていました。しかし、それを行わなかったのはゴールドマン先生、クリスタキス先生といった一流の先生方に指導していただき手術を行うことができたからでした。

病棟から見た日の出
病棟から見た日の出

― 外科医の教育に情熱を傾けるサニーブルック病院 ―

 臨床を初めて6ヶ月経った頃から手術の術者をやらせていただけるようになりました。術者を始めたばかりの頃は、自慢ではありませんが私は本当に手術が遅く、周りをイライラさせました。
 しかしクリスタキス先生以外の先生は実に気長に指導してくれました。
 ある日、カナダの研修医がバイパスに使う血管の剥離を行っていました。あまりに遅く手術の進行に影響が出そうだったため、私が変わろうとしたところ、スタッフの1人であるフリームス先生が私に言いました。

 「そんなことをしたら、そいつは一生血管の剥離ができるようにならないだろ。そいつにやらせなさい。」

 彼らは教育病院の責務を果たすことに絶えず絶えず気を配っていました。その姿に私は感動を覚えたのを今でも鮮烈に覚えています。
 おかげで私も次第に手術の腕が上がってきました。クリスタキス先生だけは手術のスピードにかなりの重きを置いているため、それなりのスピードになるまでは決して手術を任せることはありませんでした。

 私は当初、カナダでバイパス手術を100例執刀したら日本に帰ろうと決めていました。ところが60例ほど執刀を行ったところ、少しずつスタッフの先生方が、手術を完全に私に任せてくださるようになりました。
 つまり私が手術を行うときはスタッフの先生は手術室に入らず他の仕事をされるのです。私は他のフェローやサージカルアシスタントという手術の助手を行うことを職業にしている人を第一助手にして手術を行うことを許されたのです。
 しかも、私が完全に任されて行った手術の第一例目はクリスタキス先生の患者さんでした。こうなると週に最低でも6例は自分で執刀を行うため、100例という目標はあっという間に達成してしまいました。外科医の教育に情熱を傾けるサニーブルック病院だったからこそここまでやっていく事ができたと、心からサニーブルック病院の先生方には感謝をしています。

手術を行う私とサージカルアシスタントのマーク
手術を行う私とサージカルアシスタントのマーク

― 2002年 帰国 ―

 手術という面では充実しておりましたが、サニーブルック病院から私に支払われる給料はわずかであったため、だんだん生活が苦しくなってきました。また文句ひとつ言わず私のわがままに付き合って、地球の裏側まで連れて行かれた私の家内や子供にも申し訳ないという気持ちもありました。そして何より私の目的はあくまで日本で手術を行うことでしたから、160例程度執刀した時点で日本への帰国を決意しました。

 日本へ帰る直前、クリスタキス先生は我々家族をご自宅に招待してくださいました。その場で先生は小さな封筒を私に手渡され、こうおっしゃいました。

 「ナオジ。今まで私の手術を手伝ってくれてありがとう。お前はもう馬鹿ではいけない。これを使いなさい。」

 封筒には「佐渡への招待状」と書いてあり5000ドルの封筒が入っていました。私は思わず涙がこぼれそうになってしまいました。

 「Yes, I understand.」
 とだけ答えた私にクリスタキス先生は優しくこうおっしゃいました。

 「もうYesだけでいいよ。」

心臓血管外科部長 華山 直二